… … …(記事全文5,985文字)【今号の要旨】 戦前の日本には、連合国が恐れた世界水準の情報収集能力があった。ストックホルム駐在の小野寺信少将は、ポーランドやバルト三国の情報士官と築いた信頼関係を武器に、ドイツの敗北もヤルタ密約も掴んでいた。しかし東京の中枢はその情報を悉く握りつぶした。いま国家情報局の設置が進むなか、「箱」を作るだけでは歴史は繰り返される。
戦後81年、ようやく動き出したインテリジェンス改革
国家情報局の設置法案が、2026年4月22日、衆院内閣委員会で可決された。内閣情報調査室を格上げし、内閣総理大臣を議長とする国家情報会議を創設する。さらに2027年度末までには、独立した対外情報庁の設置、情報要員の養成機関の創設、スパイ防止関連法の整備が予定されている。
独立国家として当然持つべき機関を、戦後81年を経てようやく持とうとしている。遅すぎたとはいえ、歴史的な一歩であることは間違いない。
しかし、ここで我々は歴史の教訓を直視しなければならない。
実は、戦前戦中の日本には、世界が恐れた卓越した情報収集能力が存在していた。問題は、それを中枢がまったく活かせなかったことである。せっかく情報機関を設置しても、最終的な意思決定を担う国家情報会議や国家安全保障会議が「賢く」なければ、まったく同じ過ちを繰り返すことになる。
その最も痛切な教訓を残したのが、ストックホルム駐在陸軍武官・小野寺信少将の悲劇である。
日本とポーランド ── 「ソ連の脅威」が結んだ百年の絆
小野寺の情報活動を語るには、その土台となったポーランドと日本の歴史的関係に触れなければならない。
両国の関係は日露戦争に遡る。1904年、のちにポーランド独立の英雄となるユゼフ・ピウスツキは、日露戦争のさなかに来日し、ロシアに対する共同戦線を日本政府に提案した。ロシア軍に半強制的に徴兵され、日本の捕虜となったポーランド人兵士たちは、松山の収容所で日本人から人道的な待遇を受けた。彼らは日本の勝利を自国の勝利のごとく歓喜した。
1920年には、シベリアで親を失い、栄養失調で瀕死の状態にあったポーランド人孤児約800名を、各国が見て見ぬふりをするなか、日本政府と日本赤十字社が救出し、祖国への帰還を実現させている。
1925年には、日露戦争における日本軍の軍功を称え、ピウスツキ元帥の提案により51名の日本人将校にポーランド最高位の軍功労勲章が授与された。帝政ロシアを打ち破った日本に対するポーランド人の敬意と友情は、こうして百年以上にわたり受け継がれてきたのである。
そして1930年代、国際情勢が緊迫するなか、両国関係はさらに深化した。とりわけ、ソ連とドイツに対する諜報活動と暗号解読の分野で軍事協力が発展した。この協力関係は、1941年12月にポーランド亡命政府が日本に宣戦布告し、形式上は交戦状態に入った後も水面下で維持されていた。
この歴史的絆の延長線上に、小野寺信とポーランド情報部員たちの運命的な出会いがある。
「諜報の神様」── 小野寺信の情報ネットワーク
小野寺信は1897年、岩手県に生まれた。陸軍士官学校を5位の成績で卒業し、恩賜の銀時計を拝受した俊才である。シベリア出兵に従軍した際にロシア人家庭に泊まり込んでロシア語を習得し、参謀本部第二部(情報部)のロシア班に配属された。
1936年、バルト三国のラトビア・リガに駐在武官として赴任した小野寺は、ここでのちの運命を決定づける人物たちと出会う。ポーランド陸軍参謀本部情報部ドイツ課長のフェリクス・ブジェスクウィンスキー、その部下ミハウ・リビコフスキ、エストニア陸軍参謀本部情報部長のリカルト・マーシングらである。
小野寺は彼らと家族ぐるみの付き合いを重ねた。子供たちの誕生日パーティーに招待し合い、深い信頼関係を築いていった。これは単なる外交的社交ではなかった。ソ連という共通の脅威に直面する国々の情報士官同士が、人種と国籍を超えて結んだ「情のつながり」だった。
1939年、独ソ不可侵条約の締結とともにポーランドが分割され、1940年にはバルト三国がソ連に併合された。祖国を失ったブジェスクウィンスキーらはスウェーデンに亡命する。
1941年1月、小野寺がストックホルムのスウェーデン公使館附武官として着任すると、リガ時代の旧友たちがそこにいた。故国をソ連に奪われたポーランドやバルト三国の情報士官たちは、祖国再興を夢みながら小野寺のもとに集まった。日露戦争以来の歴史的友情と、ソ連への共通の敵愾心が、彼らを結びつけていたのである。
こうして「小野寺機関」が形成された。
小野寺の情報収集の核心は、ヒューミント(人的情報活動)だった。機密費を使って亡命情報士官たちの生活を支え、信頼関係のうえに秘密情報を得る。リビコフスキは「ペーター・イワノフ」という偽名で白系ロシア人を装い、杉原千畝から発給された満州国パスポートを持ってストックホルムの日本陸軍武官室で活動した。彼が送ってくる情報は、上司ブジェスクウィンスキーの頭文字をとって「ブ情報」と呼ばれた。
小野寺は複数の情報源を照合することを鉄則としていた。ポーランドのリビコフスキとエストニアのマーシング、二つの独立した情報源からの情報が一致した場合にのみ信頼できると判断し、東京に打電した。この原則こそ、インテリジェンスの基本中の基本である。
その情報の質は、敵味方双方が認めるものだった。英国情報局保安部(MI5)は小野寺に対して「個人ファイル」を作成し、徹底監視の対象とした。ドイツ保安警察は小野寺を「対ソ諜報の長」と分析した。戦後、1944年にストックホルムを訪ねた海軍の扇一登大佐は、「小野寺さんは他国の情報将校から"諜報の神様"と慕われていた」と回想している。
「日米開戦絶対不可なり」── 無視された30通以上の電文

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