… … …(記事全文2,603文字)落語家の桂米朝さんが生前に落語の枕話によくしていたものですが、戦前の好景気の時代、1940年(昭和15年)くらいに、給料がどんどん上がって、軍需工場で働いていた息子に対してボーナスが100円出て、100円札で支払われて家族が驚いたという話なんですが、長屋住まいの人は生まれてこのかた100円札など見たことがなく、近所の人も集まってきて、うちの婆さんに見せてやりたいと長屋中をぐるっと一周して100円札が廻って戻ってきたら回覧したお札の裏にハンコが多数押されていたという内容でした(^_^;)
1940年の100円札だと一次100円兌換券。
よく見ると
此券引換に金貨百相渡可申候
「このお札を持ってくれば、100円分の金貨と交換します」という兌換文言ですが、大正6年までは兌換券を持参すれば本当に日本銀行の本支店の窓口で金貨に交換してくれました。
しかし第一次世界大戦の混乱で各国が金貨と紙幣の交換を停止すると日本も大正6年に金貨との交換を一時的に禁止しました。その後、昭和5年に一度だけ交換を再開しましたが、直後に世界恐慌の直撃を受け、激しい金の流出が起きたため、わずか1年ほどで再び禁止された経過があります。昭和6年、金貨との交換が完全に停止されました。これ以降、ということは「此券引換に金貨百相渡可申候」というのは書かれていながら実際にはそうではないという嘘表記ということになります。
昭和17年の太平洋戦争中に新しい日本銀行法が制定され、仕組み自体が現在の「管理通貨制度(金の裏付けを持たない制度)」に完全移行したため、兌換の約束そのものが法律上も消滅しました。
江戸時代は小判などの金貨や銀貨で高額取引の決済がされていたのですが、明治になって経済規模が桁違いに大きくなると、金銀貨で取引決済がしづらくなってきます。企業間で1万円の取引があった場合、10円金貨だと1000枚の用意が必要となってきます。金銀貨だと現金を物理的に輸送して支払うことが不便なので、明治時代に施策として紙幣が流通するように変わりました。大量の「重い硬貨」を持ち運ぶのが限界に達したからというのが本題の結論です。
画像は明治6年に発行された旧国立銀行券20円ですが裏面にわざわざ20円金貨が描かれています。この紙が20円金貨と等価の紙幣だと「紙幣」だと信じない人もいたからかも知れません。明治初期の人々は江戸時代を生きた人々なので、金属ではない通貨の感覚は現代人とは違っていたと思います。
昔は現代のようなオンラインの電子決済や銀行振込のネットワークが未発達で明治初期には電信すらありませんでしたから、物理的な貨幣でのやりとりが不可欠でした。
明治7年の警察官初任給は4円でしたから、この20円札にどれ位の価値があるのか想像していただけると思います。
100万円程度の価値があったかも知れません。
昔の高額紙幣は現在の「一万円札」のような日常使いのものではなく、経済インフラを維持するための決済専用ツールとしての側面が強いものだったのです。
ヘッダー画像に使った大黒100円札ですが、明治18年に1円札、5円札、10円札と共に発行されましたが、ある意外な理由で早期に発行が中止され新紙幣に変わりました。100円札については未回収が27枚という記録があり、現存数は数枚だと言われています。もし未使用状態で発見されると数千万円の値段が付くと思われます。初めての日銀券が早々に発行中止、回収になった理由は、非常に興味深い理由です。



