… … …(記事全文2,608文字)私は基本的に学校も勉強も嫌いでしたが、それでも小学校と中学校には卒業後に何度か遊びに行った記憶があります。小学校では図工の先生が好きで、遊びに行って絵画創作の手伝いをした思い出があります。中学校は「3年B組金八先生」を地で行く東京下町の荒れた学校でしたが、バレーボール部に所属していたこともあり、それなりに楽しく、卒業後に先生たちとバレーボールの試合をしたこともありました。
しかし、今でも心底嫌いで、卒業以来一度も訪れていないのが高校です。あの三年間は「捕虜収容所」で過ごした日々と記憶されており、自分が何年何組だったのかすら覚えていません。その理由は、あの三年間こそが「こんな教育をしていて、将来日本が没落しなかったら不思議だ」と心の底から絶望した時期だったからです。
同級生は皆、そこそこ勉強ができました。しかし、それは暗記と反復トレーニングの世界であり、型にはまった草食動物型ロボットを大量生産しているようにしか思えませんでした。偏差値65が64.5より「賢い」と本気で信じるような歪んだ価値観を植え付ける仕組み。これでは国家の活力は衰退し、やがて没落するに違いないと直感しました。
規格大量生産時代の「教育」
社会人になってから、日本が得意とした「規格大量生産」に適した労働者を育てる仕組みだったのだと気づきました。高度経済成長を支えるには、従順で画一的な労働者が効率的だったのです。しかし、時代が転換すれば適応できず、日本経済は停滞へと転落しました。これは教育の「制度疲労」がもたらした必然的な帰結でした。
さらに深い闇 ― 日本人愚民化政策
しかし、それでも私の認識は甘かったのです。規格大量生産型教育どころか、日本人愚民化政策はもっと早い時期に仕込まれ、私が高校生の頃には既に完成していたのです。
そのことに気付かせてくれたのは、東北大学の全学教育広報誌『曙光』No.41(2016年4月1日発行)に掲載された、川島隆太・加齢医学研究所所長の寄稿文でした。そこには衝撃的な一節が記されています。
「十数年前、名は伏すが、偶然、一人の旧帝国大学名誉教授と懇談する機会を得た。その方は、戦後、GHQと共に日本の新しい教育システムを構築することに携わってきたと言っていた。そして、
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