… … …(記事全文4,674文字)●9月になると
いつも涼しい秋風が肌で感じられるこの時期になると、必ず思い起こすことがある。そうは言っても、最近は異常気象で、9月でもまだまだ暑く、特に今年は猛暑日になる地点が出ている。季節はこのまま冬になり、秋がなくなってしまうのだろうか。春も同様だ。
●「音沙汰なし」がトラウマに
「音沙汰なし」という状態が、心に与える大きな傷がトラウマとなっているのである。最近の情報環境からは「音信不通」と言い換えた方が分かり易いかも知れないが。弟から、「音沙汰なし」になったのは、1978年夏の日の夕方からだった。それ以来、安否も消息も分からない上、弟の場合、「謎の失踪」「カップルの駆け落ち」といった尾ひれが付き、最終的には行方不明者にカテゴライズされてしまった。
●連絡は電話か手紙
当時の連絡手段は、電話か手紙に限られていた。手紙はどこへ出して良いのか分からない。無言電話がかかって来ることがあり、「薫か、薫ならそうだと言ってくれ」と必死で語りかけるが返事はなかった。文字通り、手紙や電話で連絡や反応がなかった。どこで何をしているか、生きているかさえ分からない状況が24年間も続いた。
家族、恋人や友人といった親しい間柄の人から音沙汰がなくなったら、まず心配するだろう。そして、消息を尋ねるため共通の友人、残していった連絡先、その他思い当たる先に連絡し、調査をする。結果が出なければ悲しくなる。自分の力ではどうにもならない状況にやきもきする。また、心配をかける相手に、何で連絡くらいできないのかという怒りも湧いて来る。
●最後は原因を自分の言動に求める
本人が何を考えているのかは想像するしかなく、やがてその矛先は自分自身に向いて来る。自分があの時あんなことを言ったとか、やってしまったとか、音沙汰がなくなった原因を自分の言動に求めるようになるのだ。それは、妄想に過ぎないが仕方のないことであろう。そして、真相は誰にも分からないため、疲れて考えるのを止めてしまう。その繰り返しである。テレビ局に勤務する友人の計らいで、テレビの番組を通じて「連絡をくれ」と訴えた。画期的なことだったが奏功することはなかった。自分たちで考えて行動することはやり尽くした、と空しい気持ちに襲われた。
●日本の行方不明者は年間約10万人
日本では、年間約10万人が行方不明になると言われている。その90%以上の消息が数年以内に明らかになるという。捜索願が出された事件からの統計だと推測する。未成年や安否が大きく左右するような事件に関しては大捜索が行われる。弟の場合、それらには該当しなかったのである。
●私は福島で新婚 妻が失踪「音沙汰なし」
弟が失踪し音沙汰がなくなった時、私は東京電力の福島第一原発勤務だった。また、その半年前Y子と結婚式を挙げ、富岡町の家族寮で生活していた。Y子の妹T子が、弟の妻祐木子と親しい仲で、頻繁に顔を合わせていた。そのT子の証言で、弟は祐木子と二人で失踪したことが判明したのだった。それまで、私を含め誰も二人が交際していることを知らなかった。祐木子は、T子には弟とのことを話していたのだ。
妻Y子は、弟と面識があったことから、心配してくれていた。私が弟のことで、母と頻繁に長電話をしているのを見聞きして、あまり良い気持ちにはならなかったのでは、と今になって思う。それが原因とは考えられないが、だんだん二人の間に亀裂が入っていった。そして、Y子は強硬手段に出た。私が帰宅すると、彼女の姿がなかったのだ。実家に尋ねたが帰ってはいなかった。弟が失踪しているというのに、妻まで失踪してしまった。
やはり、妻からも「音沙汰なし」の状態が続いた。混乱するという言葉しか思い浮かばなかった。数カ月して、Y子は伊豆の叔母のところへ身を寄せていたことが分かった。その後、福島には戻ってきたが、駅に迎えに行った私に、「こっちは寒いわね」と冷たく突き付けた言葉が忘れられない。離婚は決定的だった。後日、離婚届が郵送されて来た。
●羽田で弟と交わした本当の話
余談だが、弟が帰国した際、メディアの取材というか「捜査」がT子にまで及び関係のない元妻Y子から抗議の電話が入った。当然のことで、一応誤りはしたが、責任は私にはない。行き過ぎた取材をするメディア側にある。また、羽田空港で24年ぶりに私が弟と交わした話は、「Y子さんはどうした?」「別れたよ」というのが真実である。
