… … …(記事全文3,705文字)日米戦争で、日本は物量で負けたという主張が多い。
しかし、それは一面しか見ていない主張だ。
今回は、あの大戦を振り返り、日本はなぜ負けたのかを冷静に振り返りたい。これこそが、真の意味での、あの大戦における日本側の反省なのだ。
この反省なしに、日本は次の戦争に備えることができない。たしかに日米の物量の差は絶望的だった。
開戦時のGNPで見れば日米の差は約十一倍、鋼材生産量では十倍以上、航空機生産数に至っては四倍半という開きがあった。
しかし、この数字だけを見て「勝負にならなかった」と結論づけるのは、実は歴史の半分しか見ていない。
物量の差は動かしがたい前提条件だったが、その差を自ら押し広げてしまうような構造的な欠陥が、日本という国家の内側に存在していたのだ。その欠陥がもっとも顕著に現れたのが、海上輸送、すなわちシーレーンをめぐる攻防だった。
日本海軍は開戦前から「艦隊決戦主義」に囚われていた。
潜水艦は敵の主力艦隊を削るための兵器であり、商船を狙う通商破壊戦は邪道だとされていたのだ。
その結果、自国の海上交通線を守るという発想そのものが希薄だった。
対するアメリカ海軍は、開戦直後から日本本土と南方資源地帯を結ぶ輸送網そのものを標的とする無制限潜水艦作戦を展開した。
レーダーを標準装備した潜水艦は、暗号解読によって割り出された日本船団の航路にあらかじめ待ち伏せし、次々と輸送船を撃沈していった。
日本側は護衛専用の艦艇整備を怠り、単独航行を続けることで被害をさらに拡大させていった。
一九四三年十一月にようやく海上護衛総司令部が新設されるが、時すでに遅く、しかもこの組織には実質的な権限がなかった。
連合艦隊が常に兵力と燃料の配分で優先され、護衛部隊は最後まで「二の次」の存在にとどまったのだ。
護衛専用艦艇の量産計画は後回しにされ、対潜哨戒に不可欠な航空兵力もまた不足したままだった。
組織を作っても、それを支える技術と資源の裏付けがなければ機能しない。海上護衛総司令部の失敗は、まさにその教訓を体現している。そして戦争末期、日本にとどめを刺したのが、アメリカ陸軍航空軍によるB-29を用いた機雷封鎖作戦、通称「飢餓作戦」だった。
潜水艦による通商破壊で外洋航路がほぼ壊滅した後も、日本は瀬戸内海や日本海を経由する沿岸航路によって食糧と資源を国内に運び続けていた。
この最後の生命線を断つべく、一九四五年三月から八月にかけて、延べ約千五百機のB-29が関門海峡をはじめとする主要港湾に一万二千発以上の感応機雷を投下した。
従来の接触機雷とは異なり、船の磁気やスクリュー音、水圧の変化を感知して爆発するこれらの機雷は、日本の掃海技術では対処のしようがなかった。
関門海峡の通行能力は九割以上低下し、約六百七十隻、百二十五万トン以上の船舶が失われたのだ。
工場への原材料輸送は止まり、都市部では食糧不足が現実の危機として迫った。米軍側からすれば、自軍の損害をほとんど出すことなく、一国の経済と軍事を内側から麻痺させた、悲しく、情けないことに史上もっとも効率的な作戦のひとつだったといえる。
下記にて大戦の真の敗因から、現代の財務省支配を打ち破る高市政権の決断までを解き明かす!
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