… … …(記事全文4,254文字)1985年9月のプラザ合意は、日本の輸出産業にとって大転換を要する死線だった。合意直後に1ドル240円台前後だった為替は、その後の数年で120円台まで進んだ。円の価値はほぼ倍になり、日本でつくって海外へ送る商売は、値段の面から成り立たなくなっていった。
ブリヂストンもその渦中にいた。当時のブリヂストンは、国内では不動の首位だった。
国内では久留米と東京の2工場で、横浜ゴム、東洋ゴム、住友ゴムの全工場合計を超える生産力を持ち、次の成長を海外に求めていた。
だが世界に目を向ければ、ミシュランやグッドイヤーの背中を追う立場にすぎなかった。海外の生産拠点は乏しく、輸出に頼っていた。
輸出の中心は乗用車用やトラック・バス用のタイヤで、品質の割に安いことが武器だった。
円高はその武器を直撃した。80年代後半には、タイヤ以外のゴム製品(コンベアベルトやゴムクローラなど)の輸出も、品目と売り先の両面で広がっていた。規模の変化は大きい。1985年当時の売上高は、確認できた一次資料がなかったが、後に述べる買収額3,300億円が単独売上高の約6割にあたったとされるので、単独では5,500億円前後だったと逆算できる。連結でも1兆円には届いていなかったはずだ。それが2025年12月期には4兆4,294億円になった。
40年ほどで連結規模は数倍に膨らんだのだ。安さを失った輸出企業が生き残る道は、安さ以外で選ばれることしかない。ブリヂストンはこの点で、円高になる前から布石を打っていた。
スポーツタイヤのPOTENZAは1979年に生まれており、日本ではまだハイグリップという言葉が一般的でなかった時代から、走行性能で勝負するブランドを育てていた。
転機は1986年に訪れる。
回転方向を指定したパターンと、継ぎ目のないベルトを採り入れたPOTENZA RE71が、国内メーカーとして初めてポルシェの標準装着タイヤになったのだ。
当時の欧州でブリヂストンの知名度は低かったが、この採用をきっかけに、欧州のスポーツカーへ次々と標準装着されていった。
価格で買われるタイヤが、性能で選ばれるタイヤに変わった瞬間だった。
同じ頃、乗り心地と静粛性、格調まで加えた上級ブランドのREGNOも、居住性の高い高級車が相次ぐ時代の要請から生まれた。
円高で価格競争ができなくなった会社にとって、安さではなく性能と品格で値がつく商品を持っていたことは、決定的だった。社運を賭けた巨大買収の裏側と、円高が日本企業を真の先進国へ鍛え上げた決定的真実とは?続きは有料版で。
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