信長に仕えたとされる黒人従者弥助が話題になっていますが彼が本能寺の変に巻き込まれ、
信長の密命を受けて1km離れた妙覚寺の投宿していた織田信忠に急を知らせたとしている作り話があるのですが、明智軍の同意なしに包囲網を単騎突破するのは不可能だと思います。
何点か理由があるのですが、まず当時の本能寺は現在の秀吉によって再建された中京区寺町通御池下ルにある「こじんまりとした」本能寺ではなく、
※現代の本能寺
東は西洞院大路、西は油小路通、南は四条坊門小路(現蛸薬師通)、北は六角通に囲まれた1町×4の区画にあった、東西約120メートル南北約120メートルという広大な敷地に存在したもので、周囲は堀に囲まれて城塞に威容を誇っていました。
この旧本能寺は天正8年(1580年)2月に本堂や周辺の改築が施されています。
平成19年の旧本能寺発掘調査でも堀の幅が約2メートルから4メートル、深さが約1メートル、0.8メートルの石垣とその上の土居(屋敷地の周囲に防御のために築いた盛土)が周囲にあって、ただの寺院ではなく、信長の宿舎に相応しい、防御面にも配慮された城塞のような城構えを持っていたことが、確認されています。
天正10年6月2日(1582年6月21日)
この旧本能寺の周囲に光秀は総勢1万3000人(本能寺への寄せ手は3000余騎)の軍勢で包囲して南門から突入しています。
※史籍集覧 第13冊「祖父物語」近藤瓶城 編 国立国会図書館 蔵
必死に応戦していた信長や小姓たちですが、光秀の謀反と知った信長は
「是非に及ばず」の一言を残し自刃したのは有名な話です。
弥助ものの小説ではなぜかここで弥助が本能寺を脱出するのですが、
史実ではこの時、本能寺脱出を許されたのは女性たちだけです。
「女はくるしからす急罷出よと被仰追出させられ」
あたり前ですね。いくら命令でも主君を敵に放置したまま離れる家来など侍とは呼べません。
※太田牛一 著『信長公記』巻15 甫喜山景雄 明治14年 国立国会図書館 蔵
この光秀の謀反で本能寺では御小姓衆、御中間衆51名が討死(信長公記)
※当代記では150~160騎、蓮成院記録では14、5名の御近習の者が討死となっています。
有事に主君が弓をひき、槍で応戦しているのを見て現場を離れるバカは侍どころか、
日本男児なのかも疑わしいです。あっモザンビーク人でしたねw
堀のあり軍勢に包囲された本能寺の中から男が突破できるはずはないのに、
なぜか弥助は妙覚寺から二条新御所に進出した信忠の陣で明智軍に捕縛され
投稿して許されたとなっています。
黒人なので忠臣蔵の吉良のように女装して脱出を企てることもできるわけもなく、
なにより包囲しているのは昨日まで同じ織田家中だった明智の軍勢です。
黒人弥助を信長の従者にしていた話は全員知っていたはずです。
正面突破すれば「おのれ密偵め」とその場で誅殺されていたと思います。
ではなぜ本能寺を出られて二条新御所で明智側に投降して許されたのか。
自分はそもそもこの弥助は誰からも侍だとは見做されていなかったからだと思います。
本能寺からは女性と一緒に難を逃れ、二条御新造でも侍扱いされずに
『黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず』として、『インドのパードレの聖堂に置け』と光秀に言われる始末。
だれですか、こんな来日1年ほどのモザンビーク人を侍だったように演出したのはw
長文にお付き合いいただきましてありがとうございます。
六衛府のウェブマガジンは毎月4回、毎週月曜日に配信しています。(第5月曜日を除きます)こちらからです⇒
学校では教えてくれない日本の近現代史
よろしければぜひ定期購読をお願いします。
割高になりですが単一記事ごとに購入することも可能です。
読後感、記事へのコメントをXに投稿してくださると筆者の励みになります。
本ウェブマガジンに対するご意見、ご感想は、このメールアドレス宛てにお送りください。
配信記事は、マイページから閲覧、再送することができます。
マイページ:https://foomii.com/mypage/
【ディスクレーマー】
ウェブマガジンは法律上の著作物であり、著作権法によって保護されています。
本著作物を無断で使用すること(複写、複製、転載、再販売など)は法律上禁じられています。■ サービスの利用方法や購読料の請求に関するお問い合わせはこち
https://letter.foomii.com/forms/contact/■ よくあるご質問(ヘルプ)
https://foomii.com/information/help■ 配信停止はこちらから:
https://foomii.com/mypage/