… … …(記事全文4,150文字)1945年8月、日本の敗戦で先の大戦が終結すると、台湾ではカイロ宣言に基づき連合国軍の委託を受けて、中華民国国民政府(首席・蒋介石)が、それまで日本の統治下にあった台湾を接収しました。翌月9月には台湾省行政長官公署(行政長官・陳儀)が発足し、日本の降伏を受諾しました。
※台北市太平町に掲げられた国民党歓迎の横断幕
台湾住民は当初、日本は負けてしまいましたが、自分たち台湾人の手で自治独立できると思い、期待していましたが、台湾を新たに統治しようとした大陸から来た国民党政権は、市民に賄賂を要求するなど腐敗しきっていたほか、日本語の使用禁止や台湾の自治延期といった政策、ハイパーインフレの発生や行政機関の機能不全による疫病の波及などにより、日本統治時代よりはるかに劣悪な国民党統治を目の当たりにして台湾住民は失望や怒りを募らせていきました。
犬去りて、豚来たる( 狗去豬來)
終戦間もないころの台湾社会の流行語です。
犬は日本人の台湾総督府、豚は大陸から来た中国国民政府(本省人・蔣介石政権)のことです。「犬は獰猛で騒がしいとはいえ、番犬として重宝されるのに対し、豚は食べるだけで何もしない」という例えです。
筆者が意外だったのは当時の台湾人のほとんどは自分たちを中国人だとは思っておらず、台湾人であると認識し、とくに日本統治時代に公務員だった人々は自分たちは日本人であると思っていた人の数が現代日本人の想像よりはるかに多かったようです。
日本の台湾総督府による統治が50年間続いた関係で、終戦時の台湾の人々は大陸にルーツを持つ外省人(客家系・福建系など)を除いた人々は日本語か台湾語しか話せなかったの史実だったようです。
台湾に上陸した中国国民党軍はひどい占領統治を開始します。
在台米軍の報告書には基隆で第75師第222連隊の兵士30人が数軒の家に押し入り、衣類や宝石類を盗んだ。そして、現場に駆けつけた日本の警察官8人と複数の憲兵からさえも、時計や財布などを盗んだと書かれています。国民党が基隆に上陸したのが1946年3月8日、台湾の日本軍が武装解除されたのは1945年10月17日ですから、武装解除の半年後あたりの出来事だと思います。
なお台湾からの日本人の引き揚げは1946年12月終了の第二次帰還でほぼ完了しました。
1947年2月27日、台湾で大事件が発生します。
たばこ専売制に違反して台北で闇タバコを売っていた女性(林江邁さん40歳、2人の子持ちの未亡人)に中国人警官たちが暴行し、商品とお金を没収しました。この女性に同情して集まった市民に中国人警官が銃を発砲して死者が出たことで大衆的な怒りに火が着き、翌28日以降、台北をはじめ各地で激しいデモが発生しました。二二八事件です。
当局は台湾各地に戒厳令を敷いて武力で抑え込もうとしましたが、市民に多数の死傷者が出て火に油を注ぐ結果となり、大規模な反政府運動に発展していきました。
激怒した台湾人民衆は政府施設を襲撃し、外省人経営の商店を焼き討ちしました。
反乱民衆は日本語や台湾語で話しかけ、答えられない相手を外省人と確認すると暴行するなどの手段を行いました。台湾住民の中には日本語が話せない人々もいましたが、「君が代」は国歌だったのですべての台湾人が歌えたため、台湾本省人たちは共通の合言葉として「君が代」を歌い、歌えない者は外省人として排除しつつ行進しました。やがて本省人側はラジオ放送局を占拠、軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ、立ち上がれ 」と全島に決起を呼びかけました。
台湾省行政長官公署長官の陳儀は国民党主席の蔣介石に、大陸から軍隊を増援するよう要請しました。
3月8日に増援部隊が到着すると政権側は反撃に転じて武力鎮圧に成功しました。
そして始まったのが、反政府的と目された人々に対する粛正である。いわゆる「白色テロ」で、その最大の標的となったのは日本統治時代のエリート層でした。ナチスドイツのポーランド統治と同様のことが現実に台湾で起きていたのです。結果として台湾は多くの優秀な人才を失う結果となりました。、1992年に国民党政権がこの白色テロの犠牲者が1万8000〜2万8000人とする推計を発表していますが、加害者側の発表なので現実には1桁違ってたと思います。
この人をご存知でしょうか?
熊本県宇土市出身で警察官だった坂井德藏さんと台湾出身の湯玉さんを父母に、台湾の台南市で生まれ育った、坂井德章さんです。
父の德蔵さんは台湾本島人による最後の抗日武装蜂起であった西来庵事件で殉職しています。
姓は内台共婚法成立前に父親が亡くなってしまったので湯姓の湯德章として警察官となります。
20歳で台南州警務部巡査となり、日本の普通文官試験にも合格、巡査部長、台湾総督府警察官及司獄官練習所甲科を経て警部補にまで昇進しますが、台湾姓であることに出世の壁を感じたのか、警察を退職し、東京の叔父を頼って上京し、叔父と養子縁組をして坂井姓となります。
坂井さんは。中央大学に聴講生として法律を学び、最終学歴は小学校卒業でありながら戦時中の昭和17年に高等文官試験司法科、翌年には行政科にも合格しました。現在の司法試験より難関とされた高文試験に二分野で合格するという快挙で坂井さんは台湾台南に戻り、湯德章として弁護士事務所を開設することになります。
終戦後、現役の弁護士だった坂井さんは台南市人民自由保障委員会の主任委員に選出され、台湾人の人権保障の活動に努めますが彼の運命を変える228事件に遭遇します。
二二八事件では「二二八事件処理委員会」のメンバーとして、混乱の収拾にあたりますが、事件の鎮圧に乗り出した軍に身柄を拘束され、冤罪で無惨にも銃殺刑に処されてしまいます。





