… … …(記事全文3,236文字)このウェブマガジンは近現代史を中心に扱っていますが、今回は安土桃山時代。
二年ほど前だっただろうか。信長が宣教師から譲り受けた黒人を召し抱えたので「黒人侍」が誕生して活躍したなどという話がゲームソフトのモチーフになり、一部の歴史評論家が黒人弥助が侍であったことを史実であるかのように語り、世間を騒がしましたが、最終的にはゲーム販売元の公式が謝罪声明を発表する事態になったようです。
このウェブマガジンでも過去に取り上げたことがありますが、現在では外国人の方々が日本では江戸時代の直前に黒人侍が大活躍していたと誤解している人も出始めています。
外国人に嘘の日本史を教えるべきではありません。
一部過去投稿と重複する内容もありますが、どうがご容赦ください。
筆者はこの黒人「弥助」が武家奉公人(武士)として信長に召し抱えられたことについては「信長公記」などに書かれていることなので異論はないのですが、関係者はどうしてもこの弥助を「サムライ」(SAMURAI)としてプロモーションしたかったみたいで、弥助推しの人は弥助が「侍」であったと力説するのですが、そもそも侍と武士は等価ではありません。平安時代以降のすべての侍は武士であったと言えますが、その逆の、すべての武士は侍だったとは言えないのです。
なぜなら、侍とは上級武士のことで、江戸時代であれば乗馬本分の旗本以上、百歩譲っても御家人の徒士身分(少なくとも槍を立て、四供を召し連れる身分)より上の者を指していました。徒士の俸禄は70俵5人扶持でした。筆者は士分格の最低水準はこのラインと見ています。
※四供を召し連れる御家人。
もっと厳しくラインを引くと、主君に謁見できないような「お目見え以下」の御家人は上級武士たる侍とは言えないと思います。
筆者の感覚では士分格の最低ラインは御家人の徒士、侍は旗本からです。
それ以下の御家人、足軽同心の類は、武士とは言えても上級武士たる侍とは言えないのです。
江戸の町民は八丁堀の旦那(同心)も侍であると勘違いしていたようですが、幕末に幕府軍として軍事召集された同心は甲冑姿ではなく完全に足軽の胴丸・股引姿で江戸市中を行進させられ、顔を真っ赤にして下を向いて歩いたと言います。
しかし同心というのは元は戦国時代から江戸開府となって召し放ちになった足軽でしたから、幕末に同心が足軽として復活してもなにもおかしくないのです。
このような人たちも武士ではあるのですが士分格のない軽輩なのでご維新の直後は士族にも入れてもらえず、卒族に分類されていました。
侍というのは元は貴族に近侍していた人々のことで武士とは限りませんでした。
高貴な人を「見守る・様子をうかがう」ことを意味する「もる(守る)」が、「もらふ」と変化し、修飾・接頭語の「さ」がついて「さもらふ」となりました。時代が下り、「さもらふ」を業とするものは「さぶらひ」と呼ばれるようになり、室町時代ごろまでには「さぶらい」と呼ばれるようになりました。この頃はすでに高貴な主人に仕える武人のことを指していたようです。
当然ですが、「さぶらい」自身も家来を持ち、世襲のための名字(家名)もありました。
名字の名のりが無いと、家来は「どちらの御家中でござるか」と問われても返答に困ります。家名が無いということは自動的に家を興していない武家奉公人の範疇だということになります。
百姓だった秀吉が足軽だった頃からすでに「中村」姓を名乗り、信長に仕官してすぐに「木下」姓を名乗ったのも意味があるのです。名字は家名なので出世を望む武士にとって必要不可欠なものだったからです。
名字のない武士は武家奉公人によく見られますが、名字のない侍は聞いたことがありません。まして上級武士の侍なのに家名がない(家来がいない)などはあり得ないからです。
戦国時代、一時的に侍の定義が曖昧になったことはあっても、家名を表す名字の名乗りは武士の常識として大切にされていました。百姓でも帯刀していた時代なので武士階級にとっての家名の名乗りは家臣団の一員として大切なことでした。



