… … …(記事全文2,052文字)江戸時代の貨幣制度は「金」「銀」「銭」の三貨制度だったことは多くの方がご存知だと思いますが、学校の教科書などではこういう図が説明に使われたりします。
図は金一両が一分銀4枚または一分金4枚、一分は4朱であることを表しています。
江戸時代の金貨銀貨は4進法で流通していました。
なのに銭は10進法。
上の図では欠落していますが、「銭」について幕府は江戸初期に永楽銭(室町時代から江戸草創期に流通していた明の輸入銭)1000枚で1両、その他の粗悪銭(鐚銭)の場合は4000枚で1両とする定めとなったため、江戸幕府鋳造の寛永通宝の流通が本格化し、永楽銭が全面通用禁止になった慶長13年(1608年)以降も「永1000文」=「金1両」の代名詞となってしまいました。
幕府の鋳造した寛永通宝は1文銭が4000枚、4文銭なら1000枚で金一両となる建前(幕府公定レート)でしたが実際の相場(実勢価格)はそうではありませんでした。
このあたりは話すとややこしくなりますから(後述しますw)学校の社会科の先生は生徒に
「1両はだいたい4000文でした」と教えているようで、記憶では筆者の高校の時の先生もそう教えておられた記憶がありますが、実際には間違っています(^_^;)
社会科の先生でも1両≒4000文と認識しているのなら、私たちもその程度の認識でいいのではないかと思いがちですが、江戸時代、1両が4000文ぐらいだったのは江戸中期、1760年代の宝暦・明和期ぐらいまでで、1770年頃から対銀銭相場で銭一貫文(1000文)≒銀10匁(6分の1両程度)まで下落して推移して、幕末の慶応年間(1865年〜1867年)には1両=およそ10000文(10貫文)超の記録が残されています。
最大2.5倍も価値が違うものを「だいたいこの程度」と教えるのはあまりに乱暴で、幕末の江戸市民が知ったら怒ると思います(^_^;)
※幕末の金の海外流出により銀相場は江戸初期の2倍近くまで下落しますが、非鉄金属でできていない「銭」はもっと(2.5倍以上)下落していました。
さて、表題の「永」についてですが、金銀貨対して変動する銭貨を定量的に表記できなくなる難しさが出てきます。
市中の蕎麦屋なら品書きの代金を相場変動の都度に書き換えれば済むことですが
証文や取り決め事だと変動相場を定量的に書かなければならない場合、困ったことになります。



