最近私のことを知っていただいたかたもいると思うので、改めてそのバックグラウンドについてお話しさせていただきたい。
私はいま、「他人の声を聴く」ということを重要視している。人々は公の場で、もっと声を発するべきだとも思っている。
私は高校時代、学歴・偏差値至上主義だった校内への問題意識から、高校3年の5月、「この国の学校制度を考える会」という校内愛好会を設立した。
ちょうどそのころから、政治への関心を持ち、「政治系高校生@ハートのメガホン」という名前でSNSでの発信活動も始めた。
しかし、愛好会の活動の一環として掲示した「参院選の仕組みを解説するポスター」は、公民で習うような内容だったにもかかわらず、校則で禁止されている「政治的活動」にあたるとされ、剥がすように求められ、問題意識を感じSNSにこの出来事を投稿した結果、新聞やテレビに取り上げられるなど大きく話題になった。
ただここから、すこし辛い高校生活最後の一年が始まる。
まず、SNSのアカウントが高校中にバレた。
学校では特になにも政治的発言をしていなかったが、SNSでは政治批判など投稿しているとわかると、「思想が強い」と皆が私と距離を置くようになり、小中高と同じ学校だった積年の友人も挨拶さえしてくれなくなった。
分が悪かったのは、さらに私がその年の4月より名字が変わり、「白坂」姓を名乗るようになっていたことである。親の再婚。再婚した父親は、実名顔出しで政治的な発信活動をしている。
私はその影響で、政治思想に「洗脳された」と思われていた。
地方だからか、すぐ噂が広まっていった。
SNSでは、同校や近隣高校、近隣大学の学生から、私を非難したり、いじるような引用投稿がなされるようになった。(詳細は私のXの「ハイライト」を参照されたい)
クラスでは、だれも私のメディア出演や愛好会について触れてこなかったが、静かに、しかし確実に「浮いて」いた。
私は、私の話を聞いてほしかった。
もともと教育制度への問題意識があったこと。
再婚で確かに影響は受けたが、「洗脳された」わけではなく、本を読んだり自分で調べたりするなど、自分で選択し、考えて政治的発言をしていること。
もっと学校でもフラットに、政治のことを話したいということ。
そのひとの政治的選択には、そのひとの生きてきたすべてが詰まっていると、私は考える。
つまり、そのひとの半生の「物語」がある。
他人は、少なくともその個人の生きてきた「物語」を否定することはできない。
私は「リサは政治思想に洗脳されている」と言われ、皆から距離を置かれたときの辛さ、悲しさをいまでも引き摺ってしまっている。
当時SNSでの、見ず知らずの人からの応援の声が心の支えになっていたことで(それ自体、本当にありがたかったが)自分の居場所がSNSに偏ってしまったとも思う。
考えが先鋭化し、いいね稼ぎの政治批判投稿を量産してしまった反省もある。
だからこそ、政治的な考えを「一方的に拒否される」ことは、その人にとって、ある意味でそれだけ危険なことだと思っている。
そして、対面で「声」を発せない状況はもっと危ないとも。
私はいま、さまざまなデモの現場で、なるべく人の声を聴くようにしている。
そのひとのすべてを知ることはできないが、なるべく、「彼ら」とくくらずに、その個人の「物語」を知りたい。
それによって社会を変えようという大義があるというより、ただ、その目のまえの個人を尊重したいと思ってしまう。
しかし最近は、そうした取材で、私という個人が逆に「尊重されない」こともあると知った。明らかに差別的な言葉を受けた。
差別的な発言はよくない。相手の尊厳も「物語」も、もろとも侵害するから。
ただ同時に、その発言もそのひとの「生」に「物語」に直結しているものだったりする。
ならば、それは「物語の勝負」にしてはいけない。
「物語」を「更新」しなければならない。
そのうえであらためて、社会倫理としての「共通の土台」を再構築すべきではないか。
その方法をいま考えている。
ReHacQやNoBorderのように、異なる立場の意見対立を「エンタメ」にしてはいけない。
それこそ、「物語」の尊重からはかけ離れている姿勢だと、私は思う。
私はこれからも取材活動をしていくが、やはり質問を工夫していくつもりだ。
そのうえで発信する。
今後の活動にもぜひ、ご期待いただきたい。

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