以下のメルマガは今年12月3日に配信した記事です。今回、一部修正のうえ無料で再配信します。ぜひ、お読みください。なお、時制や肩書等は当時のままです。
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先日、何気なくネット配信のニュースを眺めていると、以下のようなものに出会った。他愛のない記事ではあるが、それでも「ちょっと待てよ」と不可解な気持ちになったのも確かである。
https://hochi.news/articles/20251124-OHT1T51205.html?page=1
この番組は日本テレビと全国の系列局が11月24日にオンエアした特番で、タイトルは「県民スター栄誉賞」という。同局のホームページによると、「地元民に心から愛され、他県に自慢したい地元の顔は誰なのか!? 他県の人には、新発見が続々! 地元民だから選べる知られざる偉業を成し遂げた地元スターもランクイン!」と記され、同局と調査会社が「地元の顔」を選ぶ企画なのだという。
https://www.ntv.co.jp/kenminstar/
選ぶ基準は「認知度」「好感度」「地域貢献度」「スター性」「自慢したい度」の5つで、たとえば北海道では大泉洋が、東京では北野武が、また福岡県ではタモリがそれぞれ1位に選ばれている。これらの選考結果については選考基準に照らせば驚きもしなかった。まあ、そうなるだろうといった程度である。
驚いたのは、この中に知事や国会議員がいたことである。大阪では日本維新の会代表で大阪府知事の吉村洋文が2位に選ばれていた。他府県では鳥取県の平井伸治(2位)、徳島県の後藤田正純(5位)、愛媛県の中村時広(9位)の各知事がそれぞれ選ばれている。国会議員では香川県から国民民主党代表の玉木雄一郎が7位にランクインした。それ以外は、どの地域もタレントかスポーツ選手が大半だった。声優や漫画家もいたが、企業経営者は皆無のようである。とにかく目立つ人、テレビでよく見る有名人が選ばれているようである。
吉村は府知事だから「地元の顔」であるのは当然であり、なるほど、選考基準の「認知度」は備えているだろう。だが、「好感度」や「スター性」といった他の項目に合致するのかと考えると首をかしげてしまう。ましてや「地域貢献度」になると、どれだけ高いのかと疑ってしまう。性懲りもなく3度目の住民投票を目指し、大阪市廃止・特別区設置構想(いわゆる「大阪都構想」)の実現を裏で画策している吉村を見ていると、地域貢献度どころか地域破壊度のほうが大きいのではないかとさえ思えてくる。
本来、このような番組はバラエティーのジャンルであり、知事や国会議員などの政治家が選ばれたからといって目くじらを立てる必要はないのかもしれない。文句を言えば、「野暮だ」と白い目で見られるだろう。ただ、それでもタレントなどはまだしも、バラエティー番組とはいえ政治家をランクインさせるのはどうなのか。大げさかもしれないが、民主主義の破壊ではないかとさえ思えてくる。その理由については以下に説明する。
同番組の企画や趣旨に関してケチをつけるつもりはない。私はテレビをほぼ見ないので、「勝手にどうぞ」といった感想しかない。ただ、吉村のような知事をランクインさせるのは、政治家を疑似タレントと位置づけ、人気投票の対象として扱っていることに他ならない。知事や議員は本来、住民や国民のために行政と政治を担う責任と義務があり、タレント性などは要求されない。かれらに求められるのは統治力であり政治力である。
このあたりをすっ飛ばしてタレント性ばかりを強調するのは、視聴者にある種の錯覚を与える効果を持ってしまう。これはテレビが持つ効果と、構造的な欠陥を浮き彫りにしているものだと考える。
まず、タレント枠の中に政治家を混入させるのは、どうなのか。他の上位がすべて芸能人の中で、吉村や鳥取県知事の平井が「地元の顔」としてランクインすると、視聴者の頭の中では自然と「タレント的存在」として認識されやすくなる。人気=政治力という錯覚が生まれやすくなると言える。先述したように、政治力や行政力は人気とは異なる評価軸で測られるべきものなのに、視聴者は「人気がある=政治的に優れている」と短絡的に結びつけてしまう危険があるのだ。
テレビによるバラエティー的な演出は、知事らの政策や行政手腕を曖昧にし、代わりに「親しみやすさ」「顔の売れ方」を強調する効果を生む。これは政治報道ではなく、むしろ芸能的な消費に近いものである。報道機関が政治家を「スター」として扱うことは、権力監視よりも「人気演出」に傾く危険を生む。さらに、有権者が「人気投票」と「信任投票」を混同してしまうと、ポピュリズム(大衆迎合政治)を加速させる要因となり、民主主義にとって決して健全な状態とは言えない。
心理学に「ハロー効果」(Halo Effect)というものがあるそうだ。ある対象の一部の特徴が強く印象に残り、その印象が他の評価全体に影響を及ぼしてしまう心理現象のことである。なお、「ハロー(Halo)」とは聖人や天使の頭上に描かれる後光や光輪のことだ。後光が差していると、その人がすべて立派に見えてしまうことから「ハロー効果」と名付けられた。
ハロー効果の一例を挙げると、「学歴や見た目、肩書が良い人は能力も高いだろう」と思い込んでしまい、他の特徴や全体の評価まで歪められてしまう場合などだ。いわゆる一種の認知バイアスである。
日テレ系列で放送された番組は、まさに「ハロー効果」を生み出す典型だと言える。「地元の顔」「スター性がある」「ルックスもいい」などと全国ネットで放送されると、行政手腕や政策立案能力といった他の特徴まで実際以上に優れていると思い込んでしまう心理作用が働いてしまうだろう。
バラエティー番組でタレントに混じって政治家が上位にランクインすることで、「これだけ人気があるのだから、知事としても優秀に違いない」という無意識のバイアスを視聴者に植えつける可能性が高い。その結果、本来検証されるべき行政上の失敗や政策の矛盾が、「人気者」というポジティブなイメージの陰に隠れてしまい、批判的な検証が届きにくくなる。むしろ、「あの知事は優秀だ」と行政能力を過大評価しがちになる。
次に、この手の番組は政治の「エンターテインメント化と消費」を生みやすくする。つまり、知事や議員を行政・政治の責任者としてではなく、テレビの中のキャラクターとして消費させる構造である。これには親近感の罠が潜んでいる。
吉村などの知事を「地元の顔」としてタレントと同列に扱うことで、かれらと有権者との心理的距離が縮まる。これは決して悪いことではないが、その一方で有権者が知事や議員に対して持つべき「権力監視」という視点を鈍らせてしまう。むしろ「応援する対象(ファン心理)」へと変質させる恐れがあるのだ。
実際、兵庫県知事の斎藤元彦知事がそうではないか。亡くなった元県民局長による告発の問題以降、公益通報などの件で斎藤はマスコミや有権者らから批判されている。だが、その一方で斎藤応援団とでも呼べるグループが出現し、斎藤をタレントのように崇めている。斎藤に対する批判が多ければ多いほど、その反動で"ファン"が続々と生まれてくる連鎖が続いている。
斎藤はテレビ番組の「地元の顔」には選ばれなかったが、批判的とはいえマスコミへの露出が多いことで、「可哀想な斎藤知事」「斎藤知事は間違っていない」といった逆ベクトルのファン心理が働いている印象である。
知事や議員などの政治家にファン心理が過度に働きすぎるとどうなるのか。タレントの不祥事と政治家の失政は次元が異なるが、同じ枠組みで扱うことで政治的な責任問題も「スキャンダル」や「話題」のレベルに矮小化される恐れがあり、結果、責任に対する曖昧化が始まる。タレントにファンはいても不思議ではないが、政治家に必要なのは有権者でありファンではない。知事や議員のタレント化は、有権者との間で倒錯した関係を生んでしまうだろう。
政治家がタレント化すると危険なのは、かれらを選ぶ基準が「人気投票」になってしまうことだ。行政力や政治力の検証が置き去りにされ、知事の責任や成果が曖昧になりかねない。視聴者は「人気があるから良い政治家だ」と思い込みやすくなる。政策や実績よりも「露出度」「好感度」が評価基準になり、これは長い目で見れば民主主義の質を低下させる遠因になりかねないのだ。
一方、テレビ局にとって吉村は、視聴率が取れる魅力的なコンテンツとして位置づけられている。それに乗じた維新は吉村人気を利用し、無党派層への知名度拡大や党のイメージアップとして活用している。つまり、テレビ局は維新の党勢拡大に協力しているわけである。だが、テレビ局と吉村との相互依存、相互利益の関係が深まるほど、メディアは知事に対して厳しい質問をしづらくなる。厳しくすると出演を断られるリスクを抱えることになり、その結果としてジャーナリズムの監視機能が低下するだろう。
結論を言うならば、日テレのような番組は視聴者にある種の錯覚を与える効果を生む。先述したように、知事などの政治家は本来、行政運営力や統治手腕、政治力で評価されるべき存在である。だが、テレビ番組は「人気」や「親しみやすさ」を前面に出すため、視聴者に「タレント的存在」として刷り込む作用を持つ。この種の番組は、視聴者に「吉村知事はタレント並みに愛されている」という錯覚を与え、本来なら最も重要であるはずの「政治的な実力や結果責任」を曖昧にする効果を間違いなく持っている。
ところで、このようなテレビ番組が生み出す「政治の芸能化」はいまに始まったことではない。過去においても政治家とメディアの歪な関係は多数存在した。その歴史的な流れをざっと追ってみたい。
テレビのなかった戦前は新聞がマスコミの代表格だった。ラジオもあったが、高価だったため一部にしか普及しなかった。この時代、政治家は新聞記事や論説を通じて「政策」や「思想」で評価されていた。見た目や人気よりも「言論空間での説得力」が重視された。
戦後の昭和30年代以降はテレビが一般家庭に普及し、政治家が自身の「顔」を国民に直接届けるようになった。これが政治家の映像的な魅力を映すようになり、故・田中角栄のように個性が強く、故・中曽根康弘のような外見的な良さを持つ政治家が存在感を増すことになった。
米国では43歳の若さで第35代大統領に就任し、後に暗殺されたジョン・F・ケネディがそうだった。ケネディは大統領候補のときから、テレビという新しいメディアを政治戦略の中心に据えた初期の政治家である。中でも、ともに大統領候補だったケネディとリチャード・ニクソンによる初のテレビ討論は、米国政治史の転換点として語り継がれている。
この討論会をラジオで聞いた人は「ニクソン優勢」と感じたという。ところが、テレビで見た人はまったくの逆。若々しくて落ち着いた雰囲気のケネディに好印象を持ち、ニクソンに対しては病み上がりで顔色が悪く、しかも汗をかいていたため悪印象を視聴者に与えてしまった。このテレビ討論会は映像効果によって好感度などに大きな差が生まれることを証明した。
大統領になったケネディは、カメラ映えする容姿、落ち着いた話し方、ジャクリーン夫人や子どもたちと過ごす家庭的な映像演出を通じてテレビ時代にふさわしい「絵になる大統領像」を確立した。このケースが後の政治家たちのモデルになったと言われ、ケネディのスタイルを真似る日本の政治家も増えてきたのだ。
テレビも1980年代以降になると政治のバラエティー化が進むようになる。政治家がワイドショーやバラエティー番組に登場する事例が増え、政策よりも「人柄」「親しみやすさ」が強調される傾向が顕著になった。たとえば「ハマコー」こと故・浜田幸一である。
かれは「国会の暴れん坊」の異名を持つ、強面の政治家として与野党から恐れられていた。その浜田が政治家を引退後、ビートたけしのお笑い番組などに出演するようになったことで、「お茶目」「かわいい」といった印象が視聴者に広まり、かつての強面の印象ががらりと変わったことがあった。浜田の本質は何ひとつ変わらないのに、これもテレビによる映像演出であり効果である。
平成期に入ると劇場型の政治が台頭してきた。その代表格が小泉純一郎元首相である。小泉はメディア、とくにテレビを通じてキャッチコピーやパフォーマンスで支持を集めた政治家だった。それが「自民党をぶっ壊す!」や「聖域なき構造改革」「改革なくして成長なし」といった強烈でシンプルなキャッチコピーである。
小泉の発言は、分かるようで分からないが、それでいて納得させられる独特のリズム感があり、これがテレビ映えするスタイルとして定着した。キャッチコピーを繰り返しメディアに露出させることで、政策の細部よりも「改革のイメージ」を国民に浸透させたのだ。また一般紙やスポーツ紙は、記事の見出しに小泉の言葉をそのまま引用し、政治を「ショー化」するスタイルを編み出した。小泉の事例はテレビによって政治の芸能化が進化し、またテレビが政治に利用された代表だと言える。
翻って現在はどうか。XやFacebook、またYouTubeなどのSNS全盛の現代においては、政治家はテレビだけでなくSNSでの発信も高めるようになり、それが政治家のタレント性やキャラクター性を有権者に与えて支持を得る構造が強化されている。高市早苗首相から与野党の政治家まで、かれらの大半はXなどでアカウントを持ち、自身の身の回りのことから所属政党や政策について発信している。ときに不用意な投稿が炎上騒ぎに発展することもあるが、「悪名は無名に勝る」のたとえの通り、それで知名度を広げる者も少なくない。その象徴的な事例がN党党首で、先ごろ兵庫県警に逮捕されて神戸地検に起訴された立花孝志だろう。
日テレ系の「県民スター栄誉賞」という番組が持つ負の側面は、必ずしも一過性のものではない。すでに説明したように、戦後から現在まで「政治家の人気=政治力」と錯覚させるメディア演出は繰り返されており、テレビやSNSの論理に組み込まれた構造的傾向と言える。
同番組は、政治家を「タレントランキング」に組み込むことで、政治家を芸能的存在として消費する構造を私たちに可視化した。歴史的に見ても、戦後以降に政治家が「人気」や「顔」で評価される傾向は繰り返し現れており、メディア環境が変わるたびに強化されてきた。とくにテレビバラエティーの文脈から見ると、政治家は政治の遂行者や政策の立案者ではなく、「視聴率を取れる人物、またはコンテンツ」として扱われる。元大阪府知事で元維新代表の橋下徹が各テレビ局から常にお呼びがかかるのは、まさにそうだろう。
テレビ局にとっても、政治家をタレントとして扱うことは極めて合理的だと言える。なぜなら、テレビ局は常に数字(視聴率)が取れる新たな人物やコンテンツを探しているからだ。その点、堅苦しい政策論争よりも、知事や議員のキャラクターや人気ランキングの方が視聴者の感情を刺激しやすい。結果、視聴率の向上に役立つというわけである。
また、制作コストの安さもある。視聴者のテレビ離れが顕著な現在、各局は制作コストのダウンなど経費削減に励んでいる。高いギャラのタレントよりも安いギャラで出演を快諾し、すでに知名度がある政治家をブッキングする方が手軽である。しかも、「有権者に人気がある権威ある人物が出演してくれた」という付加価値まで付いて、まさに一石二鳥というわけである。
だが、この状況が続くと国民が被るデメリットは計り知れないものになるはずだ。まず、行政能力や政治力はあるが地味な実務家は淘汰されるかもしれない。代わって、行政能力はゼロに近いが外見の良さと演技力に長けたパフォーマーばかりが権力を握ることになる。これらは単なるメディアや政治家のスタイルの変化ではなく、民主主義として持たなければならない「理性的な対話と検証」のプロセスを空洞化させることにつながる。その結果、私たちの未来は衆愚政治のディストピアが誕生することになるだろう。
ただし、吉村ら各県の知事を「地元の顔」としてタレント化したテレビ局は残念ながらその自覚はない。政治の質を劣化させた張本人だという罪の意識など皆無である。今回の問題は吉村たちに責任があるというよりは、テレビ局の無自覚さと無責任さが招いた象徴的な出来事であると言えるだろう。(文中・敬称略)
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