… … …(記事全文1,946文字)いきなり映画セットの北町奉行所を出してしまいましたが、こんな看板は虚構です。
建物に建物名称を表す看板が付くようになったのは郵便制度のできた明治時代以降のことで、
今では信じられない話ですが、地元の人以外は往来する人や近所の人に何の建物なのか、確認するしかありませんでした。商売人だけは別で、いろんな意匠や、商品名、商店名の看板を掲げていました。
江戸の三男(さんおとこ)と言えば、火消しの頭、力士と与力ですが、火消しの頭は数十人の若い衆を従える親方で、町の顔役になっていましたから江戸市民の憧れの存在でした。
力士は金持ちだったようで遊びも派手で有名人。力が強く裕福。そりゃ人気も出ますよね。
与力。なぜかいわゆる「八丁堀の旦那」と呼ばれた同心ではなく与力。
同心は足軽身分で武士最下級の軽輩だったことを江戸の町民も知っていたのかも知れません。
同心の俸禄は30俵2人扶持といいますが、同心にも序列があって俸禄が違っていました。
初出仕の無足見習は俸禄がゼロ。
その後、見習、本勤並、本勤、添物書役格、添物書役、添物書役、物書役、年寄並、増年寄役、年寄の順に出世していきました。
実際の同心の切米高記録がこちらです。
三十五俵宛が20人、三十三俵宛が5人、三十一俵宛が7人で、役料なしの本勤が68人。
20俵という気の毒な人は増人同心で、一人前ではない部屋住み(親と同居)の若手です。
おそらくまだ十代の未婚者だったと思います。
同心の最高位、「年寄」の先は与力の最下級に出世できるのかなと考えがちですが


