… … …(記事全文1,973文字)戦後80年が過ぎてしまい、先の大戦の話は「古い話」で片付けられそうなのですが、昭和20年8月15日以降も大戦は終わっても、国内での「戦争」は続いていました。
東京裁判を経て、A級戦犯とされた25人が有罪判決を受け、東條英機ら7人に死刑判決があり、後に、A級戦犯の「御霊」は靖国神社に祀られましたが、彼らの「遺体(遺骨)」の行方や墓がどうなったについてはあまり知られていません。
昭和23年12月23日(当時の皇太子殿下の誕生日)に、極東国際軍事裁判においていわゆるA級戦犯として処刑された7人は、横浜の久保山火葬場で火葬に付されました。
東條英機=元首相
広田弘毅=元首相
板垣征四郎=元陸軍大臣
土肥原賢二=元陸軍大将
松井石根=元陸軍大将
木村兵太郎=元陸軍大将
武藤章=元陸軍中将
絶命した7人の遺体は午前2時10分にトラックに載せられて出発。午前3時40分頃に横浜市の米軍第108墓地登録小隊に到着し遺体は仮置きされ、午前8時すぎには同市内の久保山斎場に運ばれ、火葬されました。
当然ですが遺族は遺灰の引き取りを願いましたが、GHQは拒絶しました。
戦争の犠牲となった人々の遺骨、遺灰を遺族が引き取りたいと願うのは当然の話で、日本では遺灰をお墓に納めて、遺族はそれを本人だと思って子々孫々までお祀りするのが当然なのですが、アメリカはそれすらも許さなかったのです。
処刑の翌朝、米第8軍のルーサー・プライアーソン少佐により、横浜東方の太平洋上空約30マイル(約48キロ)で散骨されました。
「散骨」と言えば聞こえがいいのですが、船であれば洋上で散骨するセレモニーが可能かも知れませんが、ルーサー・プライアーソン少佐はアメリカ軍連絡機で上空から遺灰を投棄しています。
洋上を200km/h近い高速で飛行していたら、かなりの風圧で風防を少し開けるだけでも精一杯のことで、それ以上のことはできなかったはずです。
おそらく7つの骨壺を次々に投下して帰投したと思います。
横浜東方48kmの太平洋上というのは日本の領海(当時3海里内、現在12海里内)ではない公海上で、A級戦犯とされた人々の亡骸は日本の領域外に投棄されたことになります。
このような事実が明らかになったのは数年前のことです。
幸いにも裁判で小磯國昭の弁護人を務めた三文字正平弁護士はこの遺骨を回収しようと考えて、面識のあった僧侶と火葬場の飛田善美火葬場長とひそかに相談の上、米軍が処理して残った遺灰を共同骨捨場から密かに骨壺一杯分を集めて、翌年5月3日、松井大将ゆかりの興亜観音に持ち込むことに成功しています。
※興亜観音 創建者松井石根大将 昭和15年
ちなみに愛知県西尾市三ヶ根山にある「殉国七士墓」は、昭和35年に興亜観音の七士遺骨から香盒一ヶ分を分骨してもらい埋葬したものです。
いわゆるA級戦犯とされた人々の遺骨の遺族返還が拒絶された理由は大きく2つあります。





