… … …(記事全文2,298文字)江戸時代の通貨、寛永通宝が初めて作られたのは寛永13年(1636年)のことでしたが、日本各地に銭座が設けられ、幕末まで鋳造が続き、発行総数は300億枚とも400億枚とも言われています。
一文銭は銅製のものと鉄製のものがあり、一文銭と、一回り大きな四文銭には真鍮製のものと鉄製のものがありました。
江戸時代の商品価格が16文などの4の倍数が多いのは四文銭の存在が大きいのですが、とりわけ8の倍数であることが多いのは「九六銭」という不思議な勘定方法にあると思われます。
寛永通宝は銭通しと呼ばれる紐でまとめるのが一般的で、100文を1束として持ち歩きました。100文なら一文銭100枚か、四文銭25枚となるはずですが、なぜか九六銭の概念だと100文は96文あれば100文と見做されたので、一文銭だと96枚、四文銭24枚で100文通用となりました。
同様に本来は1000文で一貫文となるのですが、九六銭の概念だとなぜか960文で一貫文となる(短陌・たんぴゃく)のです。画像の銭さしには96文×10で960文しかないのですが、これで一貫文として普通に通用しました。「省銭」、「省百」という呼び名で呼ばれていました。
しかし厳密な取引を必要とされる納税や両替などは慣行の九六銭ではなく、100文は1文銭100枚の「丁百」(調百・丁銭)という本来の貨幣価値での取引が求められました。96は2・3・4で割り切れるので便利であるからとか、差の4文分は手間賃だとかいう説があります。
幕末まで発行が続けられた寛永通宝ですが、幕末に鋳造された鉄製の四文銭が不評で、幕府は新たに銅合金製の「文久永宝」という四文通用の銭貨を幕末の文久3年2月(1863年)から慶応3年(1867年)まで新たに鋳造し始めます。総製造枚数は約9億枚でした。
やがてご維新となり、明治新政府が誕生します。新政府はそれまでの両・分・朱といった貨幣単位を廃止して、「円・銭・厘」の十進法による貨幣制度を制定するための新貨条例を明治4年に公布します。



