… … …(記事全文3,954文字)戦国時代の時代劇の多くは戦国武将視点で描かれて、勝った負けたの戦いだけがすべてのようになっていますが、実際の戦場は凄まじいものでした。
戦の中心兵力となった足軽、雑兵の類は臨時雇いの農民であったことが多かったようです。
なので勝ち戦になると敗残兵の甲冑や馬、武器をはじめとして戦死した者の所持金はもちろん、戦場となった村の未亡人や子どもなども戦利品として領内に持ち帰り、人買いに売り飛ばして金銭に変えていたという凄まじい実態であったのが現実です。
島津氏は薩摩大隅の戦国大名でしたが、秀吉の全国統一前は豊後の大友などに戦を仕掛けては勢力を伸ばしていました。
島津氏の家臣で宮崎城主の上井覚兼の日記「上井覚兼日記」には、戦場での残酷な情景が記録されており、天正14年(1584年)に島津氏が豊後大友氏と抗争を繰り広げたあとの話として、国へ帰る島津氏の軍勢は、ケガをした将兵のほか、濫妨人、女・子供など数十人が引き連れられており、現地の道路はそんな人々でごった返していたと書かれています。
※濫妨人⇒戦場で略奪を行うことを目的にして戦に参加している専門職。
女・子供とありますが、大友領内の領民だった人です。今でいう鹿児島県の人々が大分県の人々を奴隷にして働かせていたとは考えにくく、多くはそのままお金と引き換えに海外に売り飛ばされていたものと考えられています。
フロイスが記した『日本史』には、戦争よりも戦利品を持ち帰ることを優先した島津軍の将兵の姿を書き留めています。島津軍の将兵は多くの敵兵を殺し、さらに多くの捕虜や普通の人々を生け捕りましたが、島津氏の将兵はそれら戦利品を一刻も早く国に持ち帰りたいと考え、敵への攻撃を途中で放棄し、引き揚げたというのです。
つまり島津にとって戦争よりも略奪品が重要だったのです。
1585年、8歳の日本人少年(日本名は不明)が誘拐され、長崎で商売をしていたポルトガル人商人ルイ・ペレスに奴隷として売られました。この少年は豊後(現在の大分県)で生まれ、ペレスがその後数年間に獲得する5人のアジア人奴隷の最初の一人でした。
彼はペレス一家と過ごすうちに語学力がつき、のちに解放されメキシコの地で自由民として生涯を終えています。故郷の大分には帰れませんでした。
この8歳の日本人奴隷はのちにガスパール・フェルナンデスとして知られるようになります。

