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山田順の「週刊:未来地図」
No.837 2026/06/18
「万世一系男系男子」継承はフィクション!
謎に包まれた日本と天皇の古代史を、
ストーリーとして解き明かす!
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「愛子天皇」を熱望する国民の声を無視し、「万世一系男系男子」継承を「世界に誇る日本の伝統」とする「皇室典範」の改正が、国会内で進んでいる。それにしても、これを担っている議員たちの時代錯誤、非科学的かつ無責任な考え方には、呆れるしかない。
前回は、飛鳥時代に至るまでの古代史で、天皇と日本がどのように成立し、その後、どのように歩んできたかを述べた。そこで、今回は、それを踏まえて、いかに「万世一系男系男子」継承が、誤解と無知に基づくかを述べてみたい。
*前回配信した(前編)に続く(後編)です。
*写真:藤原宮を建立した持統天皇のイメージフォト(Nano Banana2作成)。
[目次] ──────────────
■「女性天皇」「女系天皇」を拒否する理由は?
■古代の日本は女系のほうが強い「双系社会」
■「武神・安産の神」神功皇后はなにをしたのか?
■持統天皇が「大和の国」ニッポンをつくった
■男が女のところに通う「妻問婚」が一般的
■「宦官制度」も「男子禁制」もない自由恋愛世界
■「万世一系」「男系男子」は明治に定められた
■「男を種、女を畑」とする武家社会の考え方
■女系では歴代天皇のY染色体が継承されない
■一見もっともな男性特有の「Y染色体」継承説
■遺伝子学から見たY染色体継承への疑問
■天皇は万世一系だから続いてきたのではない!
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■「女性天皇」「女系天皇」を拒否する理由は?
「女性天皇」「女系天皇」について、簡単な解説を求めると、AIにしても歴史書にしても、以下のような答えが返ってくる。
《「女性天皇」とは女性の天皇ご自身を指し、「女系天皇」とは母親だけが天皇の血筋を引く天皇を指します。歴史上8名(10代)の女性天皇が存在しましたが、全員が父親に男系の血筋を引いており、母方のみが天皇家につながる女系天皇は過去に1度も誕生していません。》
女性天皇、女系天皇についての解説はこれでいいが、「歴史上8名(10代)の女性天皇が存在しました」も、「母方のみが天皇家につながる女系天皇は過去に1度も誕生していません」も、はたして事実と言えるかというと、首を傾げざるを得ない。
少しでも科学的、歴史的な知識、教養があれば、女性天皇も女系天皇も拒否する理由などないと思うからだ。
■古代の日本は女系のほうが強い「双系社会」
まず述べたいのが、「歴史上8名(10代)の女性天皇が存在しました」には神功皇后が入っていないこと。戦前までは、第15代天皇、歴史上初の女性天皇とされたのに、戦後は、神話・伝承の人物として教科書からも消されてしまった。
しかし私は、神功皇后と飛鳥時代の女帝、第41代・持統天皇が、日本の礎(いしづえ)をつくったと思っている。この国は、女性の手によってつくられたのである。
古代の日本は、けっして「男尊女卑」「女性差別」社会ではなかった。このことを、強調しておきたい。
現在の歴史学や文化人類学では、古代日本を「男系社会」などと捉えていない。父系も母系も重視する「双系社会」と捉えており、「女系」のほうが強かったとする傾向がある。
「邪馬台国」の女王・卑弥呼に代表されるように、古代社会では政治を支える「巫女」(シャーマン)としての役割を女性が担い、これが政治権力にも直結していた。
■「武神・安産の神」神功皇后はなにをしたのか?
前回も述べたが、神功皇后は、第14代・仲哀天皇の皇后で、3世紀後半に妊娠中にもかかわらず、亡き夫の意思を次いで九州を平定。その後、朝鮮に渡って(「三韓征伐」)、新羅を服属させた。つまり、「ヤマト王権」の勢力を全国ばかりか、朝鮮にまで広げ、古代国家「倭国」をつくったのである。
神功皇后は、『日本書紀』では「気長足姫」(おきながたらしひめ)、『古事記』では「息長帯比売」(おきながたらしひめ)と記され、別格の扱いである。
幼少の頃から非常に聡明で叡智にあふれ、巫女の面を持ち、神の託宣を受けて軍を率い、政治を行った女傑である。そのため、いまも「武神・安産の神」として信仰されている。私もかつて妻が妊娠したとき、神功皇后に安産を祈願した。
■持統天皇が「大和の国」ニッポンをつくった
「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干してふ 天の香具山」
で知られる持統天皇は、第40代・天武天皇(大海人皇子)の皇后。天智天皇の娘であり、叔父に嫁ぎ、夫の死後に第41代天皇として即位し、飛鳥時代後期に、律令国家(大和の国)をほぼ完成させた。
その功績は数々あるが、日本初の本格的法典「飛鳥浄御原令」(あすかきよみはらりょう)を施行したこと、初の本格的な都「藤原京」の造営したことは、特筆すべきことだ。
もう一つ、「庚寅年籍」(こういんねんじゃく)の作成も、特筆すべきだ。これは、初の全国的な戸籍で、土地と人民を天皇が直接支配する「公地公民」という、国家の骨格をなす事業である。
つまり、持統天皇が、天皇を中心とする「大和の国」ニッポンをつくったのである。それまで、「天皇」という称号はなく、「オオキミ」と呼ばれていたものを、この時代から天皇と呼ぶようになった。したがって、持統天皇は、天皇と呼ばれた初の女性である。
■男が女のところに通う「妻問婚」が一般的
このように、女性が政治権力のトップに立てたのは、婚姻形態が現代とは違うということも、大きく影響している。もちろん、一夫一婦制などない。明確な婚姻制度もなく、男女は自由に結びついていた。
古墳時代から平安時代までの婚姻形態を見ると、「妻問婚」が一般的である。『古事記』や『万葉集』などの記述からも、このことがうかがえる。
「妻問婚」というのは、夫婦は同居せず、夫(男)が妻(女)の家に通う「通い婚」のこと。結婚しても妻と夫はそれぞれの氏族に所属し、財産も別々だった。当然、子どもは母方の家で育てられ、女性が実家の財産や家督を相続することも珍しくなかったとされる。
つまり、古代の日本は、前記したように母方が強い「双系社会」だったのであり、天皇家も例外ではなかった。推古天皇、持統天皇などの女帝が誕生したのは、当時の権力継承において、母方の血統も父系と同じように重視されたからである。
